立命館闘争1969

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11月02日(日) 00時35分38秒    資料4    立命館大学の同和教育の総括

同和教育の総括と今後の方向

 全学では「同和教育小委員会」(「同和教育の歴史的総括と担当者選定の基本万針を明らかにするため設けられていた)は一九六七年七月三日「同和教育の総括と今後の方向」(案)を起草し、七月二六日の大学協議会で承認された。この文書は戦後の立命館大学における同和教育の取組みを総括して「従来部落問題の認識や同和教育の諸方策、諸体制は大きく発展してきたが、それらはややもすれば差別事件の生起や解放同盟、学生部落研の批判等を契機として促進され、大学の内部からの主体的な取組みによって常に積極的かつ系統的におこなってきたと言い難い」という反省に立って「主体的に強化することが最も必要である」とている(『教学時報』第五号、一九六七年八月二七日)。

11月02日(日) 00時33分43秒    資料4    教授会全員の一致団結

事態の経過のなかで産社教授会に向けられた最大の非難は教授会がへ「意図的、組織的に反解同キャンペーン」を学内でおこなったということで、解放同盟は七月11日、七月十五日の両日にわたって教授会全員を文化厚生会館に集め糾弾をおこなった。教授会は「意図的、組織的云々」は事実として全くの誤解であり、大学を構成する学部教授会として問題を解決するために最大の努力をもって対処してきたものであることを主張して譲らなかった。六七年七月二四日教授会で討議された「産社としての中間総括」(案)では「一ヶ月近くに亘る事態の進展の中で幾度か危機的状況に見舞われながらも教授会全員が一致団結して問題にとりくみえたことは学部の将来の発展に大きく寄与するだろう」とのべられている。


11月02日(日) 00時31分34秒    資料3    産業社会学部教授会の見解

産社教授会の見解
 以上のような経過のなかで六七年度に入り大学協議会は各学部教授会にたいして、改めてその見解見解をまとめて報告するように求めた。産社教授会は六七年五月二日に討議をおこない、戦後の本学における取組みについて検討したうえ、大学自治との関係について問題はないか、また担当者については不適当とは考えられないとの見解を大学協議会に報告することにした。この見解は大学自治の立場から自主的に問題の解決をはかるべきであるとの趣旨にもとついたものであったが、大学協議会へのこの報告要旨が解放同盟によって問題とされ、産社教授会は差別キャンペーンの元凶だとして大学側を批判した。学生間でもそれらをめぐって激しく対立した。「立命館大学部落出身学生同盟」の名による「学生に差別を煽動する立命産社教授会ーその社会的責任を徹底糾弾する」などの見出しをつけたタブロイド六ページ活版刷のビラも配布された。
 そうした状況のなかで六月二四日に大学名の告示、六月三〇日学生部長名の「訴え」、さらに七月七日には六学部長・二部協議会委員長連名の告示が発表された。


11月02日(日) 00時27分57秒    資料2    1984年11月10日 立命館大学産業社会学部小史編纂委委員会

東上問題

 六二年度から開講された教職科目「同和教育」は部落問霧究所の東上高志氏が非常勤講師とて担当してきた。東上氏は同研究所発行雑誌『部落』六六年四月号に「東北の部落」という調査ルポを発表した。このルポに関して六六年五月、部落解放同盟京都市協議会から大学側に申し入れがおこなわれた。申し入れの趣旨は「東北の部落」は差別ルポであり、その執筆者東上氏が講師をしているのは問題である、善処せよ、であった。
 この申し入れをめぐって大学側は教学担当常務理事や学部長が解放同盟側と話し合い(六六年六月一、二二日、一〇月一九日)、教職課程委員会も「同和教育」担当者に関して検討した(六六年二月七日、六七年一月九日)。六七年になると大学協議会でも討議されて、六七年三月二九日の同協議会では担当者未定のまま後期開講の方針を決定した。この六六年末から六七年四~五月にかけて、学生の間でも学生運動上の対立ともからんで、解放同盟の申し入れ、開講時期、担当者問題などをめぐって各種の主張ビラ、立看板が各学生団体・グループから出され、学生・教職員間にさまざまな議論が沸騰した。

11月02日(日) 00時26分12秒    資料1    1984年11月10日 立命館大学産業社会学部小史編纂委委員会

1984年11月10日 立命館大学産業社会学部小史編纂委委員会
 産社創立20周年記念

(二) 「六七年問題」

 前節でのべられたように本学部が全学の期待をになって発足し、教職員・学生ともに清新の気に溢れて学部づくりにとりかかった矢先に、同和教育をめぐっていわゆる「六七年問題」が起り、立命館大学全体とりわけ本学部は激動のなかに置かれた。

同和教育の展開

 戦後立命館大学では学生の間にいくつかの差別事件が起った。また教職員の側にも誤.た部落差別認識を示す問題も発生した。そのため問題の解決と学生・教職員の部落問題認識を高めるために様々の取り組みが進められてきた。一九六二年から教職科目「同和教育」の開講、六三年九月の「部落問題対策会議」の設置、同年一〇月の人文科学研究所の「部落問題研究会」の発足がみられた。さらに一九六七年には大学独自で部落問題学習小冊子『大学教育と部落問』を編集発行して学生の学習に資し、各学部ごとに毎年講演会を開くなど、一定先進的な努力がおこなわれてきた。これらの取組みには部落解放同盟の援助もあったし、一、二部学生部落問題研究会がその推進に寄与した。

10月31日(金) 22時51分21秒    梨木智子    よく考えてみたら自殺て言えるの

高野悦子さんのことですが、たしかに自殺って言えるでしょうか。高野悦子「二十歳の原点」案内のかたが、1969年の彼女の死について京都新聞の記事を載せておられます。京都新聞は、地元の京都ですので記者が取材したのでしょう。他府県は、各新聞社と共同通信からの記事を掲載していたと聞いています。

 若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが

とあります。気になって調べて見ましたが、自殺だったとその後の新聞記事には掲載されていません。自殺らしいと言うことと、自殺、では大きな違いがあります。彼女の日記に死にたいと書いてあっても、自殺と考えるのは状況だけからの判断でしょう。人に見られると考えないで書く日記には、迷いを吐露したりしますが、それはすべて行動することではないのにね。

10月31日(金) 01時21分12秒    事実    高野さんのこと

多くの事実で誤りがあります。まず、最大の問題は高野悦子さんが自殺したと決めつけていることです。多くの人が、当時の新聞記事をのせているのに。自殺とは書かれていません。自殺だろうということであって自殺と断定できるなにもないでしょう。当時、警察は立命館大学学生課に問い合わせをしていますが、ここでも轢かれたことは事実であっても自殺と言う根拠はなにもありませんでした。自殺という文字が出たのは二十歳の原点の発行元新潮社の新聞広告からです。死んだ彼女を決めつけて書いたのは、ここから推測ですが栃木県の出世街道を驀進していた父親としか考えられません。その父親も彼女が自殺した証拠はなんら提示できていないではないですか。死、を売り物にしてセンセーショナルな宣伝が行われたのです。彼女が自殺と断定できるものがありますか?ましてや飛び込み自殺なんて当時の山陰線を知るものからしたら嘘としか言いようありません。夜中、レールの上を自由に歩けたのですから。

10月30日(木) 09時45分13秒    吉江一郎    初めての投稿

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