立命館闘争1969

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09月14日(木) 15時30分59秒    吉江 一郎    ご感想ありがとうございます。

ご指摘・ご批判は受け止めますが、少しだけ私の思いを書きます。
貴方が指摘された「『「部落研=民青』批判で出版された訳ではないと思いますよ。」という部分は、その通りだと思っています。
 「K氏・「案内サイト」にご意見があれば、別の方法がいいと思います。」という点については、K氏にも「案内サイト」メールを出しています。K氏の回答は、案内サイトに自分の分は取り消し要求したとのことでしたが、「案内サイト」は現在も取り消していません。
 「『鈴木元さん』と同列に扱うべきではないと思います。」これも、そのような視点で書いていません。「鈴木元さん」には怒りですが「高野悦子さん」に対しては「部落研」にも反省点はあるという視点で書いています。
 「また自殺で大切な家族を失った家族のことも少しは考えた方がいい。」という御指摘もその通りだと思いますが、高野悦子さんの父親がこの日記の公開を決断し、世の中に出されたことは、この日記に対する感動や批判があることを承知の上での出版されたものと理解しています。私はこの日記を読んだ読者の中から、「部落研」に対する責任追及に対して、私の考えを述べた物です。
部落研に対する批判は、当たらないと思います。多くの青年が大学時代をこのサークルで育ったのです。残念ながら我々は高野悦子さんを仲間として迎えきれなかった。そこには彼女にも弱さがあったし、我々も未熟さがあった。


09月09日(土) 12時40分02秒    名もない一読者    感想

このサイトの文書を読んでいて本当に悲しくなった。
K氏といい、吉江さんといい、
なぜ「二十歳の原点」が出版されたかが分かっていない。
「部落研=民青」批判で出版された訳ではないと思いますよ。
自殺防止以外での批判は無用かと思います。
K氏・「案内サイト」にご意見があれば、別の方法がいいと思います。

「高野悦子さん」、立命・部落研・ワンゲルの有名人かもしれません。
ただそれは本人の意思とは全く関係のないことです。
本人は名もない一人の女子大生・私人として亡くなりました。
まさか日記が出版されるとも、それで評価されるとも思っていなかったでしょう。
「鈴木元さん」と同列に扱うべきではないと思います。
また自殺で大切な家族を失った家族のことも少しは考えた方がいい。

「部落研」とは一体何なんでしょうか。
もし「部落研」が人の尊厳や人権を大切にする立場なら
別のやり方があるのではないでしょうか。
「仏作って魂入れず」

12月22日(木) 12時42分53秒    吉江 一郎    質問ありがとうございます

質問内容はこの文書の根幹部分であり、説明には一定の文書量が必要です。そこでここでは、回答の見出しだけを書き、全文は本文の質問コーナ(新設)に載せたいと思っています。
★質問1:なぜ立命館は産学共同路線へ舵を切ったのか?
☆回答1;改革路線が「経営=利益」優先に変質した三つの要因
  ①権力掌握がクーデターのような形で行われた
  ②学友会は大学民主化の方向性(課題)を確立していなかった
  ③共産党の学生運動に対する大きな方針転換が行われた
★質問2:なぜ立命館(学内民主勢力)は反対声明を出さなかった?
☆回答2:立命館民主主義が形骸化していた。(させられていた)
 Ⅰ.「写真集」「立命館の再生を願って」から分かること
  ①逆流の原因は、理事会の民主化が進まなかった。
  ②川本八郎元総長と鈴木元氏は、立命館民主主義を否定し、独裁化を図った。
 Ⅱ.なぜ学内の民主組織が立ち上がらなかったのか? 
  ①鈴木元氏は川本八郎元総長の懐刀になった以降も学内民主組織に影響力を持っていた。
  ②共産党も川本八郎元総長・鈴木元氏を公然と批判しなかった。
   


12月07日(水) 21時26分00秒    助さん    以下をお教えください。

吉江様

 浅学のため、以下をお教えください。

貴殿の記述に、

「立命館の矛盾は、他の私大に追いつき追い越せと産学共同路線で無理をしすぎたところに原因があるとみています。大学運営を、「経営=利益」に変えてしまったことが、混乱の原因だと思います」

 とありますが、

質問1.なぜ立命館は産学共同路線、経営=利益に舵をきったのですか?

質問2. なぜ立命館(学内民主主義勢力)は、産学共同路線、経営=利益に舵をきった段階    で反対声明を出さなかった(出せなかった)のすか?

03月31日(火) 00時04分16秒    吉江 一郎    書籍化のお話ありがとうございます

 テツ様 感想ありがとうございます。

 ご指摘の件(三木府連)等が分かりにくいことに全く気づきませんでした。当時の感覚で書いてしまっています。元々三木府連というものは存在せず、部落解放同盟京都府連ですが朝田氏が率いる組織も同じ名称を使っていたので、区別するために「三木府連」と書いたのですが、きちっと説明すべきでした。
 朝田理論とセクハラ論議に関心を持ってもらってありがとうございます。私も女性の人権の学習会に参加して、この問題に突き当たりました。講演後、講師の先生(女性)と少しお話をして、さらにメール交換をしましたが、女性がセクハラと感じたらセクハラだという点は絶対に譲られませんでした。
 書籍として出版してはとのお誘いですが、できればそのような形に持っていけたらとも思いましたが、何のつても無く、また部落解放同盟に対して批判的な論調もありますので、それを受け止めてくれる出版社もないのではと思い断念しています、それと私自身これほどまとまった文書を書いたのは初めてあり、その出来具合に自信もありませんので・・・。
 ただ今回あなたにこのようなお話をもらったことには非常に感謝し、喜んでいます。


03月30日(月) 04時30分41秒    テツ    是非書籍化を 3

6 引用部分がやや区別しにくいので、書籍として出版される際は、引用部分を字下げする等されると、より読みやすくなるのでは、と思います。
7 このサイトの文章を、書籍としてご出版されることを期待しています。情報拡散という意味ではネットは優れていますが、社会的信頼性という意味ではやはり印刷・出版が優れています。(自費出版ではなく)流通に乗る書籍なら、amazon等にもしっかり掲載されます。印税返上(またはごくわずか)なら、何社か声を掛ければ出版してくれるところがあると思います。私が著書を出版したときは、3社目で出版を引き受けていただきました。また、ホームページを書籍化するケースは少なくないので、このホームページはそのままでも、書籍化は可能だと思います。


03月30日(月) 04時29分15秒    テツ    是非書籍化を 2

4 女性がセクハラと感じたらセクハラ、というセクハラ理論と、朝田理論との類似性は重要だと思います。私もこのセクハラ理論の危険性を職場で何度も指摘していますが、「セクハラ専門家」がこの理論の立場に立っており、この理論を批判すると、「セクハラを理解していない」「女性の立場に立っていない」と決めつけられ、「セクハラしそうな人」とレッテルを貼られるので、昔の「解同」との戦いと同じ気持ちになります。書籍として出版される際は、この問題をもう少し大きく位置づけられれば、目次を見たときに今日的課題についても書いてある、とアピールできるのではと思います。
5 警察を学内に入れないのは当時の学生運動の基本だったんですね。でも、八鹿高校事件ではっきりしたように、暴力に訴える者に対しては、警察を動かす(逮捕させる・排除させる)のも戦いではないでしょうか?暴力団でもオウム真理教でも、警察が動かないとどんどん増長しましたよね?世代的な感覚の違いかも知れませんが、私などは、校舎を実力封鎖されているのなら、排除のために警察を使うのは、学生の学習権を守るための当然の権利行使、と思ってしまいます。最近は校内暴力にも積極的に警察が乗り出すようになってますので、一般の読者と吉江さんとの感覚のギャップがある部分かもしれません。ただ、このあたりは見解の相違ですね。


03月30日(月) 04時27分59秒    テツ    是非書籍化を 1

「高野悦子さん」以外を拝読しました。私は吉江さんより10歳くらい年下で、大学は立命でも京都でもありませんので、当時の立命の事情を知らない者としての感想です。
1 分裂後の「解同」派の人達の最近の動向が新鮮でした。「解同」内部でも変化があるのですね。
2 「解同」幹部の問題ですと、私は「解同」支部長自身が差別落書きをしていた事件が強く印象に残っています。(確か、昔の「部落」にレポートが掲載されたと思います;具体的情報でなくてすみません)
3 用語について、初出時に少し説明していただくと分かりやすくなるかと思います。
(a)「三木府連」とは何なのか、最初は分かりませんでした。誤植かと思ったら、三木一平派の解放同盟府連という意味なんですね。
(b)「東上問題」も、東上高志で検索するまで分かりませんでした。


03月21日(土) 09時32分23秒    吉江 一郎    塚本論文について①

 投稿ありがとうございます。しかしあなたの議論のやり方には疑問を感じます。
 あなたは、私に「部落問題研究所は決してこのような論文を掲載しませんでした。」と主張されました。私は素直に、部落研究所発行の本に収録されていると答えただけです。
 私の文書を読まれた方が、資料として掲載した塚本論文を読まれ、この原文に当たって見たいと思われる場合があると想定し「部落問題研究所発行の「解放運動の新展開」塚本景之著の本の中に収録されていますよ」とお伝えしただけです。
 私は、この論文が最初から部落問題研究所で出されたものでないことも承知しており、この本の中に収録されていると、探す場所として書いています。(特定をしたのです。)
具体的には以下のように書いています。
 「部落会場運動の新展開(140~163)部落問題研究所 1989年10月20日発行に収録」と書いています。 なお(140~163)はページを指しています。


03月21日(土) 09時27分12秒    吉江 一郎    塚本論文について②


 あなたの議論は、私が今回なぜこのような文書を出したかの基本的意義を理解されず自分の主張がしたいがために議論を吹っかけておられます。
 あなたが根本的に誤っているのは、私は今回鈴木元さんが書いた三冊の文書、さらには高野悦子さんが書かれた三冊の二十歳の原点(ノート・序章・原点)を部落問題研究会に所属した私が、見聞きした経験から論評を加えたものであり、その根底(立ち位置)は部落問題研究会にあります。
 あなたの主張は朝田氏と対抗していた部落解放同盟の運動内部の矛盾をことさら取り上げ「私はこれだけ知っている。あなたは知らないだろう」と吹っかけておられますが、それが何を意味するのか全くわかりません。(意味深な書き方をされておられます。)
 我々が活動したのは学生の部落問題研究会であり、「差別とは何か」を押さえる上で、朝田理論の側に立つか、それとも三木府連の立場に立つかは研究会にとって重要な問題でしたが、運動の内部矛盾については学生である我々には意見を挟む立場にありませんでした。 
 あなたが書かれた「1969年に法学部卒業された部落研のかたも塚本さんと一緒に部落問題研究所の成澤榮壽氏に質問状を出しておられましたが」という主張も、部落問題研究会の議論を経て出された意見ではなく、彼の個人的立場でなされていることです。           


03月20日(金) 00時52分01秒    故塚本景之さんの友人    塚本景之さんの論文について

吉江一郎さんの書いておられる塚本景之さんの論文は再録・再訂正され時間経緯を踏まえて部落問題研究所から出された一部の論文のことでしょう。塚本景之さんは、1969年9月にある新聞に3回に渡って掲載され、その後本にされました。まさに、あの当時、朝田理論とその蛮行を真っ向から批判した文章は画期的なものでした。原文を読んでおられないでネットで調べると時代のおさえが出来ないと思います。1967年当時と塚本景之さんが書かれた文章を再録した20年後の部落問題研究所とではまったく状況が違います。1969年当時の部落問題研究所のことの意味で書いたつもりです。成澤榮壽氏が近年部落問題研究所の所長となり立命館の史誌編纂室に「お墨付き」の文を書いたことともご存じないとは。1969年に法学部卒業された部落研のかたも塚本さんと一緒に部落問題研究所の成澤榮壽氏に質問状を出しておられましたが。文化厚生会館問題からはじまる一連の事件の一部を書いただけですが、ネットで調べるだけでなく本当に部落研に入っておられたら当時の部落研の資料をよく読んで正確にお書きください。

03月19日(木) 10時21分38秒    吉江 一郎    塚本景之論文について①

投稿ありがとうございます。
 部落解放運動の中に朝田理論が持ち込まれ混乱の中で戦った勢力の中でも一枚岩でなく、様々な矛盾や葛藤があったとのご指摘ですが、私はこの当時立命館大学の部落問題研究会に所属していましたが、このような情報には全く接しておらずこれらのことについては全く知りません。
 私が今回書いた文書は、鈴木元氏の「立命館の再生を願って」という本が如何に誤っているのかを明確にするかを当時の学生運動、さらにはその学生運動に大きな影響力を与えた情勢、とりわけ部落解放同盟の立命館大学に対する糾弾闘争が与えた影響等を明らかにしながら、鈴木元氏を批判したものです。
 その際、朝田氏に反対されていた三木府連の書記長であった塚本景之氏がこの情勢をどう見ておられたかは重要だと思い、「解放運動の新展開」 塚本景之 著 発行部落問題研究所 の中に収録されている「『朝田理論』は京都の部落解放運動をどこへ導いたか」を引用差せていただきました。



03月19日(木) 10時17分13秒    吉江一郎    塚本景之論文について②

先の文書の続きです。
 あなたがなぜ、「部落問題研究所はこのような論文は載せませんでした。」と主張されるのか、その根拠が不明です。
 公益社団法人 部落問題研究所 ホームページで、「刊行物 (書籍購入)」というボタンを押して、「塚本景之」で検索すれば
■ 解放運動の新展開 [ISBN : 4829815175]
4829815175 著者 : 塚本景之
 刊行 : 1989年
 分野 : 部落解放運動
 単価 : 1,456 円 [税別]
 という宣伝が出てきます。

 また国会図書館の書籍検索でも、アマゾンや紀伊國屋書店でも同じようにこの本は部落問題研究所出版の本として出てきます。
 実際私がこの文書を資料として掲載するにあたっては、部落問題研究所まで足を運び、現在1969年頃の立命館の学生運動のことを文書化しているとお話して、その参考資料として研究所でコピーサービスを受けてきました。少し調べればすぐわかる事実に対して、なぜこのような主張をされるのかその真意を測りかねています。


03月18日(水) 01時00分39秒    故塚本景之さんの友人    部落問題研究所はこのような論文は載せませんでした。

「朝田理論」は京都の部落解放運動をどこへ導いたか 塚本景之の論文を部落問題研究所とされていますが、部落問題研究所は決してこのような論文を掲載しませんでした。塚本景之さんは、生前、資料として掲載されている部落問題研究所の成澤榮壽氏の文章にはあまりにも多くの虚偽記載があるとして意見・質問状を出されていました。さらに塚本景之さんが立命館大学部落問題研究会に属しておられたとき早稲田大学部落問題研究会の成澤榮壽氏の活動と全面的に対立されていたことも合わせてお知らせします。部落問題研究所は、京都の解放同盟が分裂したときに三木一平氏が理事であったことなどから三木派だとか、その後全解連が出来たときに全解連派だとか、言われていましたが決してそうではないと思います。特に部落問題研究所の成澤榮壽氏の文章は、立命館大学百年史史誌編纂室が部落問題研究所の「お墨付き」をもらったと主張される根拠になっています。時代と共にいろいろ解釈されると思いますが、塚本景之さんの論文は部落問題研究所で出されたものではありません。

11月09日(日) 09時51分06秒    吉江 一郎    あなたの話には疑問符がつきます


 高野悦子さんは67年の11月23日には、実質的退部意思を固めています。さらに翌年の1月10日の日記に「部落研退部決意」を書いています。退部申し込みは4月の13日ですが、4月8日日記に、「『部落研』を離れた生活を四ヶ月間やってきた」という記述があります。(この文面からやはり11月23日以降実質的退部しています。・・翌年1月10日までは、まだらには参加していますが気合が入っていません。)
 帰省時に、お父さんが出した要望は、「『部落研』活動に十割の力を入れないこと。」(3月17日の日記)であり、彼女の現状からすれば十分受け入れ可能な要望であったはずです。
 お父さんと「もめた」のは、彼女は「自分の生き方が親によって左右されることを拒否した」のであって、本人はその時点で部落研をやめることは決めていました。
 帰省後、彼女が部落研の先輩に相談することは考えられません。相談された先輩はすでに亡くなられていると書いていますが、高野悦子を知る部落研の先輩で亡くなった者は私の知る範囲ではおりません。頭文字(例えばS・Y)でも良いので誰か教えてください。(できれば学部も。)

11月03日(月) 01時29分36秒    事実    高野悦子さんのこと

 新聞記事は警察に取材して書くものです。自殺と断定していない記事。不審死の場合は原因追及のために警察は調べるものです。警察が自殺として断定したのでしょうか。お父さんの文を根拠にされていませんか。私もこのことについて、あなたの先輩のかたに聞いたことがあります。残念ながらもう亡くなられていますが。学生課から問い合わせと分かる範囲のことを調べて欲しいと依頼があったとのことでした。このことについてもう書きませんが、あなたの先輩の話によると部落問題研究会に入部したことを夏休み帰郷して、両親から厳しく退部を言い渡された。京都に戻ってすぐあなたの先輩のところに相談にきたとのことです。通学生は早くから下宿生は帰郷後、親家族などの反対で部落問題研究会の活動に参加しなくなることが多くあったとのことでした。ともかく高野悦子さんは両親から大反対され悩んでいたとのことですが、ごぞんじないようですね。

11月03日(月) 01時13分20秒    吉江 一郎    貴重な資料ありがとうございます

貴重な資料ありがとうございます。
鈴木元氏は東上問題で朝田氏が立命館大学に攻撃してきたのはあらかじめ末川総長と打ち合わせた上で行ったと主張しています。
 その論拠として、同和問題の担当講師の専任が末川預かりになった事例を持ち出しこれがその証拠だと主張しています。
 私は、東上問題が起こった際も立命館民主主義は機能しており、末川独裁体制でなかったと判断し、鈴木元氏の主張は意識的に末川総長を落とし込めていると主張しました。
 あなたの投稿はその裏付けをなす貴重な投稿であり、感謝しています。


11月03日(月) 01時07分05秒    吉江 一郎    死亡原因について 02

 私も自殺を前提にこの文書を書いています。これはお父さんが自殺と認められ文書にされている以上私の推測で述べたものではなく、彼女のプライバシーを犯したものでは無いという意識です。
 インターネット上の高野悦子さん関連の評論を一通り読んだと思っていますが、この自殺を否定したものは見当たらないと思います。ただ私もどこかであなたと同じ主張(立命館の学生課が自殺と断定していないから自殺でない)というのを読んだ覚えはありますが、立命館の学生課には彼女の死亡原因を判断する権限も能力もなく、なぜ、学生課の判断が警察の判断より優先するのか、おかしな論理だなと思っていました。あなたは警察が学生課に死亡原因を問合わせたと言われますが、そのような行為が行われることは想像し難く、自殺の原因が何かそのあたりの事情聴取ではないかと思っています。
 要するに法的には死亡原因を特定しない限り、荼毘に付すことはできず、死体検案書に事故か自殺かの区別はなされていたはずです。


11月03日(月) 01時02分22秒    吉江 一郎    死亡原因について

二人の方から投稿を頂きましたが、二人共高野悦子氏の死因が自殺ではないのではと主張されています。
 一般的に死因は個人のプラバシーであり、死者にもプライバシーがあり、他人が推測で死亡原因を語ることは慎まなくてはなりません。
 死亡原因については、病院で死んだ場合は、医師が判断し、事故等で死亡の場合は検視官が(変死体)の検視を行うことにされています。
 高野悦子さんの場合轢死ですから当然検視官によって死亡原因が特定され(書かれ)た死体検案書が両親に交付されているはずです。この場合は京大医学部により検視されたものと思われます。そこにおそらく死亡の種別に自殺と書かれていたと思います。
 高野三郎氏が書いた「失格者の弁」にも、京都西警察署から電話があり、「おたくの悦子さんが自殺しました・・・・・」と書いています。警察は死体検案書を見てその言葉(自殺)と言ったと思われます。(もし推測で自殺という言葉を使ったとしたら人権侵害です。)


11月02日(日) 00時37分08秒    資料5    基本的人権を深める教学

そして今後の具体的方策として「同和教育」の講義は専任教員が広く「政治、経済、歴史、文化などの各領域にわたって部落問題の基本に関する講義」をおこなうことを提起し、六七年10部落問題研究室が開設され、部落問題・同和教育の研究が自主的にとり組まれるにいたった。教職科目「同和教育」も基本的人権、民主主義の観点から編成され全学生に門戸を開いている。また新入学生に対する特別カリキュラムによる部落問学習も進められ、七0年代を通して基本的人権の認識を深める教学の体制は自主的な取り組みを積み重ねて大きく前進してきたといえよう。


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